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「自由はそんなに気楽なものではない」という見方について


トラクターなどの農業機械を使わず、畑にもともとある資源を主な栄養源として運営していくような僕の農業アプローチに対して、「お金もかからなそうだし、物やルールに縛られることも少なく、自由度も高そうだから気軽にできそう」というような捉えられ方をされることがあります。


まぁ確かに。


投資額や所有物の少なさ的に、仮に全てがいきなり吹っ飛んだとしても大きなダメージもないであろうことを考えれば、結構気楽な所はあるので、そのような捉え方は大きく間違えてもいないように思います。

自由度に関しては、物やシステムに頼ったり乗っかったりした方が、遥かに自由で気楽にできることは間違いないであろう‥‥‥と思っているので、自分が自由なのかどうかはよく分かりません。


また、僕のやっていることは、身近なもので例えるのであれば、洗濯機という便利な道具があるにも関わらず、それをあえて使わずに、わざわざ遠くの川まで大量の洗濯物を運んでゴシゴシ手洗いするようなものですから、それが誰にとっても自由度の高いことなのかどうかは少し考えなおしてみてもいいように思います。


自由という言葉もなかなか奥深いものです。


自由には色々な解釈があると思いますので、人それぞれで様々な捉え方があってよいと思いますが、個人的には、自分の責任で全てを決めて生きていくことは、そんなに気楽なものでもないだろうと思っていますので、「見方によっては、自由がしんどいものになることもあるのだろう」と思っています。


その思いにとても近いことを、探検家の角幡唯介さんが、著書「新・冒険論」の中で端的に言い表してくれていますので、そちらを引用したいと思います。




真の自由とは、世間で考えられているようなお気楽な状態ではなく、じつは苦しく、わずらわしく、面倒くさくて、ときには不快でさえある状態のことだ。先の読めない未知と混沌の中ですべてを自分で判断して物事を進めるのは、言葉でいうほど気楽で生易しいことではない。はっきりいって、システムの内側の世界に留まって自分以外の者に管理と秩序をゆだねたほうが、不自由ではあるが、不安も少なくて楽だといえる。人間には生物として命を脅かすような不確定要素をとりのぞこうとする本能があるので、システムの管理下におかれたほうが心は落ち着くだろう。

夏目漱石も


「吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果、不自由を感じて困っている。」


という言葉を残していますが、自由の定義は違えど、これにも似たような所があるのかもしれないなと思っています。


世の中には色々な種類の自由があると思いますし、その中には獲得を急がなければならない自由もあるだろうとは思います。


しかし、我々の日常生活の中で普段気軽に使われているような自由という言葉は、「自ら不利な制約を課し、自分の判断と責任で生きていくことは決して気楽なことではない」という大前提が抜け落ちて語られていたり、イメージされていることが多いような気がしています。


写真はミニトマト畝の一部です。収穫もうちょいです。

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■人の力と少しの道具で成り立つ、シンプル&ミニマムな農業をモットーに、農園を営んでおります。

当Blogの主な内容は、「久保寺農園の少量多品目野菜栽培記」や「生業としての不耕起、浅耕起型農業の実践記 & その栽培方法と考え方」になります。
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