コミュニケーションの難しさとマルクスのお話
今日の投稿は、コミュニケーションの難しさとマルクスのお話です。
資本主義の糾弾的な文脈でマルクスの思想を解釈し、それを現代社会の課題に当てはめて、「資本主義の限界」を唱える人と出会う機会がたまにありますが、「現代社会における小さな農業って、そのような人たちのフックになる材料が豊富だったりするのだろうな~」と思ったりします。
解釈は個人の自由ですから、それ自体が問題だとは思ってはいませんし、僕も正確に解釈できているとは到底思えませんが、今まで僕の学んできたことから思うことは、そのような解釈は、マルクスの本来のメッセージと随分遠ざかっているような気がするということです。
決して簡単なものではない複雑な思想が「資本主義の妥当」みたいな所だけにまとめあげられてしまうのもなんだかな~、と思うこともしばしば。
マルクスの研究者である佐々木隆治先生が、マルクスのメッセージの本質を分かりやすく書いてくださっているので、ここに引用したいと思います。(下記、佐々木先生の著者、カール・マルクスより引用)
「平たく言えば、理論の役割は「なにが間違っているか、なにが正しいのか」を明らかにすることではなく、「なぜ、いかにして疎外が生じているのか」を現実の諸関係から明らかにすることであり、それをつうじて、どこでどのように闘えば社会を変えることができるのかを示すことなのだ。 理論を盲信してはならない。いくら「正しい」理論を提唱したからと言って、それで社会を変革することができるわけではない。あくまで変革をおこなうのは現実の人間であり、だからこそ、この現実の人間たちが実際に生活し、労働する現実的諸関係を分析することが変革にとって決定的な意味をもつ。そしてそのためには、世界の本質は「なに」なのか、「なに」が正しいのかを問うのではなく、「なぜ、いかにして」世界が現にあるような形態で存在するのかを問わなければならない。これがマルクスのメッセージなのである。
中略
『資本論』の目的は、しばしば誤解されるように、たんに搾取や恐慌のメカニズムをつまびらかにし、資本主義を糾弾することにあるのではない。むしろ、資本主義そのものを問わない既存の経済学の見方を根本的に批判し、なぜ、いかにして資本主義的生産様式が現にいまあるように成立しているのかをその根底から把握すること、そのことによって変革の可能性と条件を明らかにすることこそが、その目的である。」
つまり、何が正義で何が悪かなどということでなく、全体の構造の話しをしているということですね。
マルクスが「私はマルクス主義者ではない」と言ったのはとても有名な話しですが、他者に情報の本質を伝えることがとても難しいものであるということがうかがえるようなコメントです。
Twitter のように短文で簡単に表現しすぎても誤解を生んでしまうことも多いし、かといって厳密に表現しすぎても、複雑になりすぎてしまってその本質がうまく伝わらなかったりする。
相手の理解度や理解しようとする気持ちによっても伝達の精度は大きく変わるであろうということを考えると、気持ちの本質を正確に他者に伝達するっていうのは、人類にとって、そもそも難易度の高いことなのかもしれません…
ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化などというようなカテゴリーが存在するように、同じ人間でもコンテクスト依存度が違ったりすることもありますし、それが影響してうまく伝わらない、伝えられないケースもありますしね。
そのようなことを考えていくと、自分の思っている以上に、世の中はコミュニケーションのとれていないコミュニケーションで溢れているのかもしれないな……ということを考えさせられています。
夫婦ゲンカなども、「あの時言った、言っていない」「そんなつもりで言ったんじゃない」のように、正確に情報のやり取りができていないことが原因となって鍔迫り合いになることも多いように思いますし…(笑)
環境や社会の話しなどもそうですね。
「何が良くて何が悪いか」というような、個人の感情ベースの正義感の押しつけ合いから生じる、他者の立場を尊重し、通じ合うということを度外視したような意見が散見されることも多いように思います。
そのようなことから、情報の本質的メッセージが勘違いされやすいことには必然性がありそうな気がしています。
コミュニケーション、考えれば考えるほど奥深い世界です。
※写真は最近発芽したズッキーニの苗です。季節は夏野菜の仕込み時期に入りました。
今年も元気な苗が育てられますように。
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