概念としての有機農業に居心地の悪さと違和感が膨らむ。②
前回の続きです。
スケールアップも視野にいれた法人化をしようと思っている一方で、「有機農業でこのままいくの??」というような問いも発生しているというお話です。
前投稿の終わりに、「有機農業を続けていく中で、自分の得意ではない人や情報と出会う機会が増えていることが少し気になっている」と書きました。
僕は有機農業に価値を感じているからやっていますので、有機農業や環境主義のようなものを否定したい訳ではありません。その価値が誰しもの価値にならなくてもいいということを言っています。
最近は、補助金コンサルやオーガニック系のビジネスに力を入れている企業など、有機農業に未来の金脈や希望を見ているのであろう方たちから次々と連絡をいただいています。
やり取りをしていて、単純化された「オーガニック=良いものである」というような論調になっているお話しを聞く機会も少なくありません。
有機農業は慣行農業より手法として優れている。安全性が高い。みたいなことを断定してしまうやつです。
「あなたも同じようにそのような気持ちを持っているでしょ??」ということが前提となって、話しが持ち込まれることが多いのも少し気になっています。
大多数の食料基盤を支えている慣行農業が、安全性や質で劣っている存在と定義づけられるのはいかがなものかと思っています。
慣行、有機、どちらが優れているとかではありません。どちらも大切であり、それぞれに違う役割があるだけです。
農外の組織から本意とは全く違う定義づけをされて、そういうやりとりが増えてきているのも、なんだかな〜と思う材料の一つでもあります。
難解で複雑な概念である有機農業の現代なりの価値を僕もずっとつかみたいと思っているのに、そんなに簡単に答えを決めつけられてしまうと、「気楽に定義づけられない僕がただ不器用なだけなのかもしれない??」などとも思ってしまいます(笑)
ちなみに、納得いく話しかどうかは抜きにして、気持ち自体はありがたいと思うものがほとんどです。ですので、決してバカにしている訳ではありません。ご連絡をくださった方たちから学ぶことは多いので、むしろ感謝の対象です。
しかし、その提案を良いと思うかどうかはまた別の話しです。
曹洞宗の禅僧、南直哉さんは、「人間には、自己と世界の存在根拠や存在理由を知ることへの圧倒的な欲望がある」と著書で述べています。
本当にそうだなと思います。
僕はそのような欲望がどこまでいっても満たされた気がしないからむしゃくしゃしている所もあるのかもしれません。
いっそのこと、適当に理由をつけて都合の良いように解釈してしまえばもう少し楽になれるのでしょうが、性格的に現時点でそれはできそうにありません…
なぜならば、有機農業は、とても複雑な概念であるのにも関わらず、先述したように、疑うことを忘れたまま信じられているような曖昧な領域が物凄く多いような気がしているからです。
それらを単純化して決めつけたりする風潮にはどうしても強い違和感を覚えますし、自分のやっていることが誤った定義づけをされやすくなっていることにもどこか窮屈さを感じています。
まぁ、自分でまいている種なんですけれど…。
そのように、有機農業を続けてみた結果、色々と思うことが出てきて、「自分のやりたい農業をやるだけなら、有機だと認知されない方が都合よいのかも??」などと、今さらながら思っています(笑)
もう遅いか(笑)
別に農薬や化学肥料を使いたいという話ではありません。節目となりそうな機会に、自分のやっていること、やりたいこと、を一度しっかり整理するのもいいのかも??と思っているということです。
「行為として好きなことで、どう社会と関わり、滑らかに生きていくか??」
そんなことを考えているというお話でした。
別にシリアスな話でもなんでもなく、今の正直な気持ちを吐き出しているだけですので、適当に流していただければ幸いです。外に向けて書くと頭が整理されますし、スッキリするからやっているだけですので。
前投稿分も含め、最後までお読みくださった方、長文にお付き合いくださりありがとうございました。
※人参、もうちょいで出始めます。 今年もお楽しみに。
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