維持やケアの方が生産的であると認識される生産性とは?
最近、人と「生産性」について意見を述べあう機会があり、「生産性というのも、何をもってして生産的であるとするか??、というような所があるので、なかなか複雑なものだね~」、というような話しになりました。
僕は俗にいう物的拡張を前提とした「生産的である」という概念自体を素直に豊かなものだと認識できていない所があって、その一方で「自分が良いなと思うような生産性って一体なんなんだろう?」ということをここ数年考えていて、その答えが未だ全然分からなくてずっともやもやしています。
ジェニー・オデルの著書「何もしない」の中で、
「私たちが身を置く文化では、繰り返しや再生よりも、目新しさや成長がかけがえのないものだとされる。生産性の概念そのものが、新たに何かを生み出すという考えを前提としており、維持やケアが同じぐらい生産的だとはなかなかみなされない。」
と書かれていますが、維持やケアの方が生産的であると認識されながらも、人々の充実感や幸福感が自然に作られていくような社会の形って一体どういうものだろう?というようなことを最近はよく考えています。
理想論にふらずに、現実的にそういう領域を目ざせるような具体的方法や、そこに自分が貢献できるような方法を知りたいなと心から思っていますが、前述したように、僕にはその答えがほとんど見えていません。
自分自身が豊かに生きる為に必要なものに対しての理解度に関しては、年々解像度が高くなっている気がしていますが、自分以外のことや社会の豊かさも含めてのこととなると、急に解像度が激減します。
「自分が納得できるような確固たる領域が将来必ず見つかる筈だ」ということを大前提とすることは僕の考える豊かな心とは大きく遠ざかるので、生涯答えにたどり着けなかったとしてもそれはそれで構わないとは思っていますが、その一方で、納得いく解が導き出せず、もやもやしていてスッキリしないことに対して、気持ち悪さを感じている自分もいたりします。
僕はもやもやを許容できない自分の心理状態にストレスを感じることが多いので、問い続けることだけで満足できる認知能力のようなものやネガティブケイパビリティのようなスキルをずっと欲し続けていますが、未だに全然ものにできていません。
機が熟していない状態で無理やり意味付けすることよりも、もやもやしていることの方が健全な時もあるだろうと思いつつも、こういう感情、全然器用にコントロールできないです(笑)
それはそうと、今年はきゅうりがめちゃくちゃよく採れています。
EC低めの所に意識的に作付けたのが奏功したのかな?
同じようなことをやっていても、毎年色々と発見があるから面白いです。