自家採種の本質的価値
空豆、そろそろ採り始められそうです。
例年の空豆栽培は、自家採種の種を全体の8割くらい作付けることを基本としていましたが、今年は違う品種の割合を増やしています。
なぜそうしたかというと、ここ数年で、自家種の品質や栽培安定感が落ちてきているような気がしているからです。
種の採りやすい豆類だとはいえ、品質の良い種をつないでいく為には、高度な目利きや栽培管理、選抜力が絶対的に必要で、「ただ元気な株から採種すればよい」というような単純なものではないのでしょう。
ここ数年、そのようなことを痛感しております。
こういうことがあると特に感じますが、高品質な株や種を選抜し続け、種の品質を守り続けているプロの採種家って本当に物凄いことをやっているなと。
僕はそもそも採種家ではありませんが、素人なりにそれなりにトライしてみた結果、うまく採種できなかったり、長く品質を維持できないことも多いので余計にそう思います。
自家採種って行為そのものが美しいものとされて称賛されるようなことがしばしばありますが、自家採種という行為そのものはなんてことのないことで、栽培目的で考えれば、品質の良い種を残し続けることができて初めて自家採種の本質的な価値を理解できるのだろうと考えています。
それはそうと、空豆ってかなり前から人類の生活を支えていた植物だということを皆さんご存知ですか??
その歴史はかなり古く、紀元前10,500年頃から栽培化されていたということが確認できているようです。レンズ豆、ヒヨコ豆、エンドウ、オオムギ、コムギなどの植物も同じくらいの年代で、大体、紀元前11,000~10.000年くらいに栽培化されたということが確認できているようです。
空豆に関しては、野生種から栽培化されるまでにどのくらいの時間を要したのかということがよく分かっていないようですが、コムギやオオムギでは、脱粒性の野生種から非脱粒性の栽培種に置き換わるまで2,000~4,000年を要したと言われています。
このような古代の歴史を考えると、現代における育種やタネの保存、新品種の開発って、それがいくら大変なこととはいえ、大分楽になったのだろうなと感じさせられます。
それが人類の進歩であるかどうなのかは僕にはよくわかりませんが、現代の社会があるのは、野生種を長い年月をかけて栽培化していった先人たちのお陰様であることは間違いのないことでしょう。
人類と食物の関係の歴史って本当に面白いです。
今年はエンドウに続き、空豆も豊作の予感がしています。
とても嬉しいです。
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