カルチベートという言葉の奥深さ
ピーマンの季節がやってきました。
今年もモリモリ採らせてもらえますように。
そういえば、今日台風が発生したみたいですが、少し気になる予報円になっていますね。
まだ果菜の仕立てをしっかりと終えられていませんので、できればあまり近づいてきてほしくない所ですが、さぁどうなることやら……。
台風の影響がでる可能性も考えて、明日の仕事は果菜の仕立てと芋掘りに急遽変更しようと思います。
全然話は変わりますが、先週朝ドラを見ていたら、菅波先生(坂口健太郎さん)が、「知識は武器です。持っているだけでは意味はないし使い方も難しいが、持っているに越したことはない」というような印象に残る言葉を放っていたのですが、それを聞いて、太宰治の「正義と微笑」の中のカルチベートについての一節を思いだし、先日、本を見返しました。(以下、()内に引用)
(日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記していることでなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、必ずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!)
僕がこの言葉に触れたのはかなり前の話になりますが、今見ても深く心に響きますし、昔よりも触れた時の味わい深さが増しているような気がします。
最近は、体験を通した学びを純粋に楽しんでいる人たちとふれあう機会も多いですし、自分が農業をするようになって、耕すという意味合いでのカルチベートがとても身近だからなのか、なおさらそう感じたりします。
カルチベートという言葉には、耕す、ほぐすというような意味の他にも、磨く、高める、洗練させる、などという教育的な意味もあるようですが、広く色々な意味を持っていった理由とその由来がとても気になります。
まいた種(教養)が成熟して実り(成長)につながるという一連の流れが、教育にも農業にも同じような所があることから、耕す、だけでなく、教育的な意味も備えていくようになったのだろうか??
などと考えを巡らせてみながら語源なども含めてあれこれ調べてみたのですが、結局詳しいことはよく分からず、キリがなさそうな感じがしてしまいましたので、今日は一旦、考えることや調べることをやめようと思います(笑)
僕は畑でのカルチベートはできるだけしないように努めていますが、カルチベートという言葉の奥深さがとても好きですし、魅力的に感じています。
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