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人間の欲望は他者の欲望である


「消費は投票である」とか「あなたが買うものが社会を作る」というような話を見聞きする機会が結構あります。


これは確かにそうだと思いますし、消費する人が、そのような意識を持って買うものを選ぶという行為自体は素晴らしいことだと思っています。


しかし、このワードを、生産者側が「自分たちの行動や製品が社会を良くする」という文脈で過剰に使用している場合や、対極にある概念や製品を貶めるかのように扇動的であったりすると、そこには違和感しかありません。


エコロジカルな商品やフェアトレードの商品などなど、世の中には、美しいメッセージやストーリーの詰まった商品が沢山存在します。


そういった商品に美しいものが多いということは僕も理解しているつもりです。しかし、そういったものが上記のような文脈で語られていると、そのものが持つ本質的な美しさが台無しになってしまうような気がして、いつも残念な気持ちになります。


個人的には、消費や取引におけるエシカルの根幹は、生産サイドが消費サイドに自分で考えて消費するものを選べるように、そのために必要な環境やフェアな情報を提供することに尽きるのではないかと思っています。


何が言いたいのかというと、生産サイドの都合や欲求によって無理矢理作りだされた雰囲気や広告によって、消費サイドが「他の誰かの欲望」をいつの間にか押し付けられているようなケースが世の中には結構あるのだろうと思っているということです。


それが、エシカルやサステナブル、ロバストというようなパワーワードに乗っかって襲いかかってくるような感じを受けているということです。まるでエージェント・スミスの大群のように。


そんなことを考えていたら、ジャック・ラカンの「人間の欲望は他者の欲望である」という言葉を思い出しました。


また、経済学者のガルブレイスが20世紀の半ばに、供給側が需要を操作しているという文脈で述べていた、


「生産者が消費者に「あなたが欲しいのはこれなんですよ」と語りかけ、それを買わせるようにしている」


という言葉も同時に思い出しました。


消費というのは、一見自由度の高い自己表現のように見えて、大前提として、他者に大きく規定されてしまうものなのかもしれません。


最近、宣伝や広告を見ていて、そんなことを考えた。というお話でした。


一応付け加えておくと、僕は人が作った価値によって欲望を刺激されることそれ自体に否定的な感情は一切持っていません。それによって感じられている幸せも多いような気もしますしね。


※ミニトマトやピーマンの2番手、秋の発射準備万端です。

ミニトマトは、背丈が2.5メートル越えしてしまった&樹が大暴れしてしまったので、適当にずり下ろして整枝しようと思っています。

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■人の力と少しの道具で成り立つ、シンプル&ミニマムな農業をモットーに、農園を営んでおります。

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