六花亭、坂本直行さんを経て考えた、畑の自然感と情報伝達について。
いつもお世話になっている方からの北海道土産で六花亭のチョコレートをいただいたことをきっかけに、最近、坂本直行さんの著作「原野から見た山」を読みました。
以下、冒頭の一文の引用になります。
「山はどこから眺めても、またいつ眺めても美しいものだ、ということについて異 論をはさむ人はないだろう。
しかし登山者の眺める山とそうでない人の眺める山とでは、少しへだたりがある と思うし、あるのがあたりまえであると思う。勿論この両者は、各々ちがった美し さを山に対して感じているにちがいない。「山を知らん奴に山がわかってたまるか」 といううぬぼれはたしかに登山者共通のうれしいお目出度さのように思う。
登山者でないある僕の友人は
「俺だって登山者ではないが、山の美しさぐらいはわかるよ」
「そうか、だが惚れて眺める女の美しさと、無関心で眺める女の美しさとはちがっ たものである筈だよ」
「うんおめぇうめぇこというな」
「アバタもエクボというからな」
………
素朴でとても良い文章です。
今日はこの文章を題材に話を広げていこうと思います。
僕は山に関わる仕事をしていたことがあり、多くの登山者のお話を聞いてきたこともあって、この感覚がとてもよくわかります。
また、それと同時に、これは畑にも当てはまる話だなと思いました。
僕は、自分の考える畑の美しさを細部まで人に伝えることがあまり得意ではありません。 話し言葉、文章、絵、動き、伝達の表現方法には様々なものがあると思いますが、どの手段を使ってもやっぱり難しいと感じます。
しかし、同じような感覚を持って畑と向きあっている人の場合は、大した情報のやり取りをせずとも、その本質が共有できたりします。
結局、情報の本質や細部なんてものは、共有できる人には簡単にできるし、共有できない人にはどんなに頑張ってもできないものなのかもしれません。
「登山者の眺める山とそうでない人の眺める山にはへだたりがあることの方が自然である」という話と同じで、個人の価値観をいつでも誰にでも共有できる話しだと考える方がきっと不自然なことなのでしょう。
人は、言語情報より非言語情報から多くの情報を得ているという研究結果がありますが、それは人と人とのコミュニケーションのみならず、先述の例のように、山や畑のような自然物と人の間でも、複雑な情報のやり取りは頻繁に起こっていて、我々は、そういった情報に大きく影響を受けながら日々を過ごしているのであろうと想像しています。
生物学者の福岡伸一さんが山口周さんとの対談の中で、「物事の本質というものは、要素としてのモノ自体ではなく、モノとモノのあいだで織りなすコトにある」とおっしゃっていましたが、そのことを思い出しました。
生物同士にせよ、生物と無生物との関係にせよ、情報のやり取りというやつは、自然の妙工同様、とてつもなく深く、未知と魅力に溢れているな~、としみじみ。