葉面散布
先日、農仲間と葉面散布の話題に花が咲きましたので、今日はそのことについて書こうと思います。
葉面散布とは、その名の通り、肥料効果や病気の抵抗性などを得るために葉に栄養分を含んだ液体を散布することです。
江戸時代には、新鮮な尿を薄めたものを葉菜類に散布する技術が実用化されていたというような話もあるようなので、かなり昔からの農業技術、知恵の一つなのだろうと思います。
■作物は茎葉、果実からも栄養を吸収できる。
作物は根からしか養分を吸収できないと思われがちですが、葉や茎からも栄養を吸収できると言われています。
下図は、現代農業1987年10月号、日本土壌微生物研究所の山脇岳士さん執筆の記事からの引用ですが、新茎葉は、根からの吸収量に近い吸収量があるということがうかがえます。
思った以上の吸収量です。
しかし、作物の生育メカニズム的な流れ「茎葉で作った炭水化物を呼吸によってアミノ酸やタンパク質に変えて細胞を作り、根を育て、その育った根で土から養分を吸収し、体を作るためのアミノ酸やタンパク質を更に合成していく」ということを考えると、茎葉の吸収量が高いからといって、茎葉だけの栄養吸収に頼りすぎてもいけないのだろうと思います。
また、茎や葉から吸収した養分をどれだけ体内に転流できるかどうかは、栄養素によっても差があるらしいので、必ずしも図の吸収量通りには吸収できないのだろうと思います。
その一例として、現代農業2001年10月号の 兵庫県立中央農業技術センターの渡辺和彦さんの記事内の「カルシウムの吸収、転流」についてのお話を下記に引用します。
●根からの養分吸収量との比較
葉や茎から、量的にどの程度養分が吸収されるかも興味のあるところである。与えた放射性物質の濃度から実際のカルシウムの吸収、転流量を計算して示した結果が表2である。二四時間後には、葉柄基部への散布では一・三六μgが吸収・転流し、根に与えた場合は五七四μgが吸収、転流した。この比率は一:四二二である。葉柄基部からの吸収量が多いといっても、実際にはこれだけの差がある。一方、与えたカルシウムの量は、葉柄基部が五μg、根では三二〇〇μgで一:六四〇。これが一:四二二になっているのだから、葉柄基部のカルシウム吸収転流能力は高い。ただし、葉柄基部からのカルシウムの吸収・転流速度は一〇時間目までは非常に大きいが、その後は急速に低下する。カルシウムの吸収速度の持続性は小さく、これが何度も散布しないと効果が出にくい一因である。
■葉面散布の効果。
葉面散布の前向きな効果で代表的なものをあげるとすると
・早く肥効が得たい。
・なり疲れ予防。
・病害虫に対する抵抗性。
・急速な樹勢回復。
・日照不足をカバー。
などなど、その他にも色々とあるとは思いますが、主なところをあげるのであればこんな感じでしょうか。
一方、ネガティブな側面をあげるとすると
・濃度障害リスク。
・吸収量は高いが多量要素の補給が難しい。
などでしょうか。
細かくあげると成分ごとに使用方法の違いがあったり、吸収率や養分の移動範囲とスピード、効果なども異なることから、メリット、デメリットという大枠だけでは理解が難しいことから、かなりざっくりとしたポイントしかあげられていませんが、個人的には
大きくそのように解釈しています。
■葉面散布はあくまでも根に効かせる技術。
先ほど「吸収量が多いからといって、あまり茎葉だけの栄養吸収に頼りすぎるものでもないのだろう」ということを書きましたが、そのことについて調べていると、現代農業編集部が、BLOF理論でおなじみ小祝政明さんに聞いた記事に興味深い記述がありました。(下記、引用文)
葉面散布は根に効いて吸わせる技術
栄養生長型と生殖生長型のアミノ酸資材を臨機応変に使い分けるとすると、土壌施用よりも葉面散布のほうがよさそうだが…。「確かに、葉面散布は生育を早めたり、登熟を早めたりする効果はある。日照不足で根が伸びないとき、生育が遅れているときなど回復が早い。しかし、葉面散布剤そのもので作物が元気になるという考え方は間違い」という。
葉にしても新芽にしても、アミノ酸が急激に入ってきた場合、それを合成する力がない。だから、葉面から入ったアミノ酸のほとんどは根に送られる。なぜなら、葉は細胞分裂によって大きくなるしかないが、根は細胞を伸ばすことでも大きくなれる。細胞分裂は時間がかかるが、根毛は短時間のうちにビューンと伸びる。実は、葉面散布のアミノ酸は根に効いているのである。
葉から送られたアミノ酸で根が伸びて活力も高まり、養分吸収が盛んになる。その結果、生育が早まったり、登熟が早まったりする。だから、もしもこのとき、根の周りの土壌中にアミノ酸やミネラル類などが不足していれば、当然、葉面散布の効果は出ない。しばしば“去年は効いたのに、今年は効かない”といわれるのは、一年目で土壌中の養分が吸われてしまったからである。
つまり、葉面散布を上手に効かせるには、あらかじめアミノ酸資材やミネラル類などを元肥にして耕耘するなり、追肥にしてかん水するなりして、根がいつでも吸えるような状態にしておかなければならない。アミノ酸を栄養生長型と生殖生長型で使い分けるにしても、やはり、根から吸わせるのが基本のようだ。
そして、「根から効かせるには土壌中に“いい菌”を増やさなければならない」という。アミノ酸は“悪い菌”にとって格好のエサにもなり、それらを抑える必要がある。また、作り込んだ堆肥やボカシ肥などにも分子の大きいタンパク質や繊維があり、それらを好む悪い菌が取り付いて増える前に、速やかにアミノ酸にまで分解させる必要がある。いい菌をあらかじめ施して土壌中に定着させておくか、アミノ酸資材になじませて施す。
アミノ酸を上手に効かせるカギは、土壌中のミネラルと微生物にあるようだ。
めちゃくちゃ納得しました。
僕の認識だと、茎葉と比べて、根からの栄養吸収量の方が圧倒的に高いと思っていることから、そもそもの土壌の構造に問題があるとそんなにうまくいかないということはとても納得がいきます。
人に当てはめて考えると、「高機能の食品をとってさえいれば、別に運動不足だろうが睡眠不足だろうが、健康に影響は少ないだろう」、のような勘違いみたいなものなのかもしれないなと思いました。
何事でもそうですが、構造の根本的なものの存在を考えることを忘れないようにしたいなと思いました。
■問いが問いを生む。
葉面散布と土壌構造の関係性も、人間と自然構造の関係性も、「何がより良い構造の基盤なのか?」ということをシンプルに理解できればよいのでしょうが、こういう複雑なことに対し、絶対的な正解を導き出すことはなかなか難しいことなのだろうと思います。
ただ、難しいということで思考を止めてしまうのは嫌ですし、絶対的な正解を導き出すために人が努力することはとても尊いことだと思います。
多くの科学分野でそのようなことを追い求めた結果の現在の人間社会の利便性や幸福感があるのだろうと思いますしね。
しかし、その一方で、絶対の正解を導きだすことが必ずしも良いこととは限らないということを考えていくのも、同じくらい尊いのだろうと思います。
わかっていることがない状態、曖昧な状態だからこそ、物事を謙虚に観察しようとする姿勢が生まれるとも思いますし、その結果、心地よい物事との向き合い方、距離感を理解できることもあるのだろうと思うからです。
また、絶対の正解が一度定まってしまうと、それが間違えているかを考えづらくなってしまいますし、正解の押し付けが生まれたり、強い固定概念につながるきっかけになるとも思いますしね。
最近、僕は「あいまいさ」をフラットに受け入れるための術ばかり考えていますが、その中で気がついたのは、「もしかしたら人は、正解を定めることにより安心できる生き物なのかも??」と感じたということと、「あいまいな状態で物事を留めておくことに気持ち悪さを覚えてしまう生き物なのかも??」ということです。
だから色々と分かりたがるし、知りたがるのだろうと。そのように考察しました。
問いはまた新しい問いを生産しますし、「この世の中に本当に分かりきれることなんてあるのだろうか??」と何をしていても感じることが多く、そういうことにもやもやすることが僕自身とても多いので、「結果や解決を目的にせずに、できるだけあいまい感を受容できる心を保っていられたら、僕はもっと穏やかに過ごせるのかもしれない?」 と最近よく考えています。
先ほど、根本的なものの存在を考えることを大切にしたいというようなことを書きましたが、「根本的なものとは?」という問いのループを楽しみ尽くしたいなと思います。