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家畜と人間社会の循環の関係への違和感。





妻が子供に牛を見せてあげたいということで、先日、朝霧高原に行ってきました。


牛や羊や豚やヤギ、家畜と人間社会の関わりに触れながら色々なことを考えさせられた1日でした。

今日は、そこから考えることに至った、家畜と人間社会の循環の関係についての雑感を書こうと思います。



僕は畜産が盛んなエリアにはあまり馴染みがないので、余計にそう思うのですが、今回、自分と畜産地との距離の大きさを感じ、僕らが生活の中で受けている恩恵の源のようなものに触れられたような気になりました。


とてもありがたいことです。


また、「僕らの生活は、食料生産地があってこその豊かさがある一方で、その豊かさを維持するための非合理的な側面(環境問題など)がある」ということに対しての俯瞰視点をクリア化してくれるような材料を数多く発見できたなと思いました。


「産地を肌で感じるってとても大切なことだな」、ということと、「肌で感じてみて初めて芽生える感情があるな」ということを改めて感じました。



今回の記事は、上記のような「産地ありがとうございます」、という感謝の気持ちを大前提に、率直な感想だけでなく、覚えた違和感についても正直に書いていこうと思います。


それでは今日もよろしくお願いします。



■堆肥って本当に循環できている??


まず、最も大きなインパクトだったことは、「家畜、すげーいっぱいいるな…」ということと、「排泄物の量がとにかくすごいな…」ということです。


よくよく考えれば、家畜の世界トータル量の方が人間の世界総人口よりも多いくらいなのだから、産地にものすごい個体数がいることになんら不思議はないし、沢山いるのだから排泄物も大量にでるのは極自然なことなのでしょう。


と言っても、世界比較で見れば、日本は家畜の少ない国なんでしょうけれど。



(FAOのLivestock Dataを見ると、牛が約15億頭、豚が約10億頭、羊が約10億、やぎが約11億、鶏が約330億となっています。 (2020年データ))




排泄物が多いので自然なことではあるのでしょうが、堆肥がそこかしこで販売されているのが目立ちました。


それらの堆肥には「循環できています」というようなポジティブなメッセージが多く、それに対し、なんだか違和感にも近い、不思議な感情を覚えました。


確かに農業への貢献度も高いと思いますし、有効利用という意味ではそれは確かに好循環なのだろうと思います。


しかし、僕の考える循環って、大量生産の中で生まれた廃棄物をキレイに回せるほどの環境キャパシティなんてものはそもそもないのであろうと解釈していますし、「そもそも家畜糞というのは、人間の生産や循環活動に本当に必要なものなのか??積極的に組み込まれていくべきものなのか??」ということの解が自分の中ででていないので、そういう意味で違和感に近いような不思議な感情を覚えたということです。




工業的な農業生産に支えられている我々の生活は、栄養豊富な家畜排泄物にも支えられているという見方もできるかと思いますが、「リン酸や窒素の土壌過剰蓄積が問題になっているような昨今、本当に大量の排泄物がうまく循環できているのか??」ということを考えさせられますし、また、「人間社会の自覚的家畜大量生産の結果、無理くり循環させようとしなければならなくなっているように見えるものを、果たして本当の循環というのか?」ということも考えさせられます。


今回覚えているのは、そういう所に対しての違和感なのだろうと思います。


とはいえ、堆肥化することにより、病原菌や寄生虫、悪臭、地下水汚染などのリスクが激減したりするとは思うので、堆肥化自体は確かに環境配慮型の好循環アクションだとは思いますけれど、実際にどのくらい上手く処理できているのだろう?どのくらい処理できていないのだろう?という疑問、興味は尽きません。



環境から多くの資源を取り出し、そこから多くのものを生産できる人間の力は素晴らしいものだと思いますが、その一方で、「膨大な量の廃棄物と毒物を世に送り出し、土壌や水や大気、繊細な生態系にどこまでのインパクトをかけているのか?」ということに対し、自分も含め、ほとんどの人は気づくこともできていないのだろうと思ったりもします。


だからこそ、そんなに簡単に循環できるものでもないのだろうと思ってしまいますし、循環に対し、謙虚さを持って向き合うことはとても大切なように思いますし、その循環というパワーワードの本質的な意味についてもっと深掘りして考える必要があるのではなかろうかと思いました。



何が言いたいかということをまとめると、そもそも作り過ぎているかもしれないようなものから排出された廃棄物を、循環させようということ自体に無理があるような気がしているということです。


また、それが循環というワードで綺麗なものとして認知されていますが、果たしてそれは行き場のないアウトプットを生み出すためのインプットになっていないか??という所に対しての問いが立っているということです。




個人的には、どう考えても 環境キャパシティ<家畜排泄物 の構造になっていると思いますが、沢山の人間が生きていくということはそういうことだとも思うので、そこに自覚的でありたいと思いはするものの、本当にそれでよいのか?という問いはどんな時でも持っておきたいと思います。



僕の肌感でしかありませんが、こういう違和感を感じている人は今の時代とても多いと思っていて、まだまだ時間はかかるのかもしれないけれど、「もしかしたら、現代はものすごい強烈なアップデートの過渡期のようなものなのかもしれない?」などとも考えています。

人類の歴史とセットで続いてきた食肉文化にピリオドが打たれる可能性も現実的に捉えられてしまうような時代だからです。


もちろん、そんなに簡単にガラリと変わるものではないと思いますが、明らかに今まではなかったスタイルで肉のようなものを食べることができることができるようになってきていますからね。


※ちなみに、家畜産業、家畜糞堆肥やそこにおける循環活動を全否定しているわけではありませんからね。疑問も沢山あるというお話ですので。

■サピエンス全史を思い出す。



現代は、アニマルウェルフェアみたいな概念があったり、牛のゲップが環境に影響があるからと言って、メタンを抑制させる飼料が開発されたり、細胞培養で卵や肉を作るイノベーションが活発になっていたりなど、家畜産業の環境インパクト問題を解決しようとしている時代だったりすることもあり、大量生産の家畜産業をうまく回していこうとすることに少し無理があるのかな?というようなことを考えさせられるような時代でありつつも、現代解釈でのカーニズムやパレオリシックの概念みたいなものにも一定の理解を示したいとも思いますし、人類は家畜とともに成長してきた生き物なのだろうとも思うので、家畜産業やお肉そのものを食べることに対して否定的な感情を持っているわけではないのですが、僕はどちらかというと、資源的な問題を考えると、これから先の未来、肉は細胞から栽培するものが主流になった方が現実的なのではないかと思っています。今の所はですけれど。


数十年前だったらSFの世界の話のようですが、現代は、クリーンミートみたいなものがリアル肉の価格よりも低くなる世界が予測されているような時代ですから、そのようなことに現実性を覚えるのではないかと考えています。



今回、僕は記事を書きながら ユヴァル・ノア・ハラリのサピエンス全史を思い出しました。




進化の狭い視点に立つと、種の成功はDNAの複製の数で決まるので、農業革命は鶏や牛、ブタ、羊にとって、素晴らしい恵みだった。



と述べつつも「家畜化された動物たちは本当に幸せなのか?」という問いかけをしている部分です。



その章を読んだ時に感じた気持ちと同じように、「繁殖していることと幸せはイコールで結びつくものではないのだろう」ということを、この度の大量の家畜の生活風景から感じさせてもらったような気がします。


これも勝手な人間の解釈なのかもしれませんけれどね。



ハラリは、人間に対しても、「農業革命以降、小麦に家畜化されて個体数を劇的に増やした私たちサピエンスは進化上は成功したが、果たしてそれぞれは幸せなのか??」というようなことを問うていますが、僕らも立場は違えど、家畜と同じような所がある生き物なのかもしれないということを考えさせられる一文です。


僕は単体で自分のことを見たら今は幸せであると感じていますが、それは映画マトリックスのような仮想世界の中での幸せの可能性もありますもんね。

全然リアルを分かっていないからこそ感じられている幸せなのかもしれないということですね。


昨今の問題って、環境にインパクトを与えるような生き物が増えすぎてしまったことによる影響も大きいように見えるので、生物単体としての幸福と、生物種としての複製数的な成功はそもそも逆を向くのではないか?とも考えてしまいますが、逆を向かない方法は果たしてあるものなのか?という気持ちになり、やり場のないモヤモヤ感に襲われます。


我々はどこへ行くのか??


未知を考えることは本当にワクワクします。

新しい問いや知恵に対しての貪欲度が上がりますからね。


歴史を大きな枠で見れば、サピエンスが農耕を始めてまだ1万年くらいしかたっていないと言われていますが、その期間で爆発的に人間が増えたのは間違いないことでしょう。


その結果、人類は、食料生産や家畜産業をものすごいパワーで回していかなければならなくなってしまった訳ですが、科学技術の発展とともに広い視点でメカニズムを理解できることも増えてきて、「もっとエネルギー抑えた方がよくない??」、「いやいや、そうはいっても今の社会を維持するのに現実的じゃないよね?」「じゃあどんな代替え策がいいかな?」というような議論もそこそこできるようになってきて、合理的なようで全く合理的でない側面についても考えを巡らせられるようになってきているのではないかと思います。

(100年前と比較してもそれは大分違うのだろうと思います)


その議論の結果、我々はどこへ向かっていくのかについては僕には分かりませんが、個人的には、色々と問題はありはするものの、人が増えてこられたのは素晴らしいことだと思っていますので、今の時代の人間を生きられていることに深く感謝していますし、これから起こるどんなことも前向きに受け止め、未来をポジティブに考えたいと思います。





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■人の力と少しの道具で成り立つ、シンプル&ミニマムな農業をモットーに、農園を営んでおります。

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