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中規模撹乱仮説







今日は先日のブログの続編で、ここ1年で考えが変化した耕作放棄地の自然力についてです。



僕は今まで「耕作放棄地であればあるほど生物層も豊かになり自然力も高くなるだろうから、耕作を放棄されていた畑の方が自分のスタイルと相性が良いのかもしれない」とばかり思っていましたが、ここ1年で読んだ本の中に、中規模撹乱仮説というものについて紹介されている本があり、その考え方が少し変わりました。



中規模撹乱仮説ってなんぞや??という方のために、以下()内に説明文を引用します。


(生物群集において、撹乱の頻度が低いとき、群集における優占種による他種の競争的排除が起こり優占種が群集の大部分を占めることになる。また撹乱の頻度が高いとき、ストレスに対して寛容性を持つ特定の種のみが存続することになりどちらの場合も結果的に種多様性は低くなる。

そのため生物の種多様性は、撹乱が稀であったり小規模であるとき及び頻繁過ぎるか大規模であるときは低くなり、中庸のときに最も高くなる。)



ということですが、これを畑に置き換えて考えてみると、「放棄地である期間が長ければ長いほど良いという訳でもなく、適当に人の手が入っている畑の方が生物多様性自体は高いのかもしれない??」 とも考えられます。



僕のような農業スタイルですと、生物多様性は高ければ高いほど良いような気がしていますので、これはとても興味深い仮説です。


しかし、これは生物の多様性の大小という視点から見ただけの話なので、それが農業や自然環境にとってどうなのかを考えると、複雑すぎてよく分からなくなってしまいます。



自然が自然のままに向かいたい方角、極相状態へと向かう為の道のり側の視点で考えれば、人が撹乱することはかえって良くないような気もしてしまいますしね。


こういうことを考え出すと、「自然にとっても人にとっても一番良いバランスが良いポイントはどこなのか??」と、つい考えだしてしまいますが、それは立場や見る側の視点によっても大きく変わるものでしょうし、正解のないものでしょうから、動きを止めてしまう程に考え込むよりも、自分の思いをどこかに落ち着かせ、その思いに沿った納得の行く行動を取ることを優先に考えようと思います。



今の時代に「なるべく自然の中で生きていこう」と考えた時に、山奥や原生林で超ストイックに暮らすことよりも、すでに人の手が入った里山のような所で、適度に自然を撹乱しながら暮らすことの方がはるかに生活しやすいことは間違いなく、それは農業という視点に置き換えても同じことでしょう。



それを考えると、「中規模撹乱仮説を現代の人と自然の関係に置き換えてみても同じようなものなのかもしれないなー」と、もんもん考えてます。



※最後に写真の紹介です。ナバナが咲き始め、畑のアブラナ類は繁殖準備に入り始めました♪

「さぁ集まれー!!訪花昆虫たち~」って感じです♪




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■人の力と少しの道具で成り立つ、シンプル&ミニマムな農業をモットーに、農園を営んでおります。

当Blogの主な内容は、「久保寺農園の少量多品目野菜栽培記」や「生業としての不耕起、浅耕起型農業の実践記 & その栽培方法と考え方」になります。
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