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食品ロス、フードロス、フードウェイスト

前回、フードロスの定義が日本と世界で違うというお話をしましたが、今日はそのことについての記事になります。


農水省のページで、「ろすのん」という謎のキャラクターが、食品ロスについて説明してくれていますが、その中では、「食品ロスとは、本来食べられるのに捨てられてしまう食品のこと」と書かれています



これが、日本における食品ロスの定義になります。



では、次に国際社会の定義も見ていきましょう。



世界の食糧問題に取り組んでいる国際農業期間(FAO)のページで見てみると、Food LossとFood Waste(食品廃棄物)で明確に分けられています。




■フードロス


小売業者、食品サービス業者、消費者を除く、チェーン内の食品供給者の決定や行動に起因する食品の量や質の減少のことである。


収穫/屠殺/捕獲から小売レベルに至るまでの食品サプライチェーンに沿って、廃棄、焼却、その他の方法で処分され、飼料や種子など他の生産的利用で再利用されないあらゆる食品を指します。




■フードウェイスト(食品廃棄物)


小売業者、食品サービス業者、消費者の意思決定や行動によって生じる食品の量や質の減少のことです。


食品のロスや廃棄が減れば、より効率的な土地利用や水資源管理の改善につながり、気候変動や暮らしにプラスの影響を与える。






という感じで定義づけられています。




国連食糧農業機関(FAO)が発表しているSOFA(The State of Food and Agriculture, 2019)(1)を見ると、上記定義の図解があります。







赤わくで囲ってある(Food Loss Index) 所がフードロスで、それが、収穫後、輸送、製造、加工、梱包、までの工程をさしていることがわかります。


その右側にフードウェイストのIndexも示されていますが、これは、小売、飲食店などの食品サービス事業、家庭で発生するものを指していることがわかります。





FAOのルール上でフードロスを考えると、収穫したものを小売に出す前に廃棄したら、それもフードロスになる ということです。(細かい数字をどうやって計るのだろうか…?)



ここで思い出してほしいのが、前々回の記事(豊作貧乏と価格低迷)であげた、収穫量と出荷量の差は食品ロスに含まれないという日本の食品ロスの定義のお話です。



(収穫して出荷されなかった食品をロスとしてカウントするかしないかの部分に違いがあるということを認識してほしいということです。)





■日本では「食品ロス」という独自の定義。


ここまでのお話で気づかれた方もいると思いますが、日本では、フードロスではなく、食品ロスという言葉を使っています。


国際社会基準のフードロス、フードウェイストの両方を合わせて食品ロスという括り方をしているように僕には見えています。


ただ、先にも述べましたように、そこには、収穫量と出荷量の差(約200万t)は含まれないことになっているので、ただ単にロスと廃棄を合わせただけのものという訳ではなく、日本独自の定義になっているということがうかがえます。




■努力はしているのだろうけれど、どう考えてもロス多すぎ。


個人的な思いとしては、ロスであろうが、無駄になったものであろうが、結局は人の社会が作り上げたフードサプライチェーンという流れの中で、どの段階で使用価値を失ったかという話でしかないわけですから、「フードロスかフードウェイストか?」、とか、「日本と世界の定義の違い」などは正直なんでもいいと思っていて、最も考えたいことは、「生み出した食べ物をなるべく効果的に利用、消費できるようにしていけるとよいよね。そのためにはどうしたらいいだろうか??」ということです。


もちろん、多くの人がロス量を減らしたいと思ってはいることは間違いないと思いますし、実際に無駄にしないように、飼料化、肥料化など、リサイクルされている量も多いですし、エネルギーに変換されていたりもしますから、食べるものとしての消費以外にも様々な努力が行われていることにより、実質ロス量が抑えられている部分もあるのだろうと思います。


しかし、その変換にもコストやエネルギーはかかりますし、「どう考えてもロス多すぎだろう…」という思いを僕は持っています。



下図は、もったいない食品センターさんがまとめてくださっている世界各国のデータですが、一人あたりの食品廃棄量で考えれば、日本とその他主要先進国にそこまで大きな差はないとはいえ、他国に62%のカロリーを頼っている中でのこの廃棄量は、生産~消費のサイクルや、食べることに対する意識そのものをもう少しどうにかした方が良いのではなかろうか??と思ってしまいます。






なるべく残さず食べる、あんまり一気に食品を買い込みすぎない、規格外のものもマーケットで活発に取引されるようにする、などなど、根本的な生産、消費の感覚のスタンダードを変える必要性も少なからずあるのではなかろうか??と考えています。


ただ、「スタンダードを変えたい」っていうのは自分の思いを俯瞰してみた時の違和感が半端ないですし、それはとても傲慢な思考だと考えるので(自分自身に対し)、僕には、淡々と自分の信じていることに向かい続け、それを実践し続けることくらいしかできないのだろうと思っていますし、そうしたいなと思っています。




■余暇が大切な気がする



人口全体の1~2%ほどしか農業に従事していなくても食べ物に困らずに生きていけるような現代はとても素晴らしいものだとは思いますが、良い悪いは抜きにして、その構造の影響で、需給のバランスが取りづらくなってしまっている部分もあるのではないかと考えます。


そもそも食品ロスという問題は、食べ物が商品としてやりとりされることが大前提となっているからこそ起こる問題なのだろうと思いますが、だからと言って、商品としてやりとりできない世の中はそれはそれでなかなかに不便なものでしょうから、僕はここで、「皆が社会システムに規定されず、自給自足的に生きるべきだ」みたいなことが言いたいわけではありません。


それはそれで問題をはらんでいることに違いはないと思うからです。


つまり、どちらが良いか悪いかは僕には分からないし、現時点の最適な答えが現システムなのだろうと思っています。


これを受けて、人々がこれからどういう挙動をとるかで、また新しい人類社会の最適解が生まれ、未来が作られていくのだろうと思いますので、自分は自分のやれること、やりたいことにひたすらに力を注ぎ続けるだけです。

少し話は変わりますが、デビットグレーバー(著)、ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事の理論)で、


「自動化により賃労働が消え、人が労働から解放された先に、社会に詩人やストリート・ミュージシャン、わけのわからない発明家が溢れるような時代が到来するかもしれない。しかし、自分たちの仕事を無駄だと思いながら一日中書類を埋めるよりは、そうしたばかげたことをする方が、はるかに幸せなことではないだろうか。」


というようなことが書かれていますが、詩人やストリート・ミュージシャン、わけのわからない発明家などと一緒に、機械を使わない謎の菜園家(笑)みたいな人たちも溢れまくるといいなと思っています。


余暇の中で、シンプルな方法で多くの人々が趣味的に農産物を生み出す時代にでもなれば、消費のあり方も大きく変わるかもしれませんしね。

何が言いたかったかというと、僕は多くの問題に対して、余暇が最も大切なのだろうと思っているということです。





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